大曲の花火師たちがつないだ、夜空の奇跡 受け継がれる技と、亡き名工への思い

公開日 / 2026.08.28

撮影者:田森 公平さん

撮影者:田森 公平さん

「思いが通じる奇跡の花火ってあるんだな…」
大曲の花火名人、小松煙火工業5代目小松忠信さんの胸に熱いものが込み上げたのは、去年の夏の全国花火競技大会のこと。

秋田県大仙市大曲と言えば、花火のニッポン最高峰。
小松さんのもとには、全国から花火師を志す人がやってきます。
皆、どんな野望を胸に抱いて門を叩くのか?
そして日々、どんな研鑽を積んでいるのか?
伝統を引き継ぎながら、新たな技を探求する大曲の花火師たちの姿を小松さんに伺いました。

夏だけじゃない。大曲の花火師は春も秋も忙しい

大曲花火の歴史は、1910年に諏訪神社の祭典として行われたのが始まりです。
全国的に有名なのは、内閣総理大臣賞を目指し、全国の花火業者28社が本気で技を競い合う夏の全国花火競技大会。
しかし、大曲の花火は夏だけではありません。
若手が新作をお披露目する春のコンクール、そして地元業者の花火師たちが会社の枠を飛び越えてコラボする秋の劇場型花火があり、花火師が年中忙しい「花火の街」なのです。

劇場型花火「秋の章」で大曲の若手花火師たちが会社の枠を飛び越えコラボした作品。小松煙火工業の“新発明”の「横に飛ばす花火」は、花火マニアの中でも大きな話題に。

劇場型花火「秋の章」で大曲の若手花火師たちが会社の枠を飛び越えコラボした作品。小松煙火工業の“新発明”の「横に飛ばす花火」は、花火マニアの中でも大きな話題に。

好きこそものの上手なれ。
休暇も花火大会へ行かずにはいられない

現在、小松さんのもとで働く社員の約4割が県外出身者(岩手、山形、東京、滋賀など8人)。小松煙火工業が打ち上げた個性的な花火玉に惹かれ、転職してきたという人から、IT 関係のエンジニアで仕事に行き詰まり、気分転換で見た花火に感動し、花火師を目指したという人も。
しかし、即採用というわけにはいきません。最初は親心から「やめたほうがいい」と断ることがほとんどだと小松さんは言います。

「誰もが、夏の競技大会に自分の作品を出し、内閣総理大臣賞を獲るという大きな目標を抱いて我が社にやってきます。多くの人は、花火職人になれば2〜3年で自分の作品を出品できると思いがちですが、一人前になるには最低でも10年かかります。それでも、コンクールに出品できるような作品が作れるかはまた別の話なのです」

それを乗り越えてでも、やり遂げる強い気持ちがないと続けられないと小松さん。では、どんな人に花火師としての可能性を感じるのでしょう。

「たとえば、幼少期から花火が好きで、全国の花火に足を運んできたという、ある意味“花火オタク”のような社員。私自身、打ち上げたことを忘れていた昔の花火玉の話を、いつ、どこで、どんなふうに打ち上げたかまで鮮明に覚えています。それから、高校生ながら、自分のスマホに花火のシミュレーションソフトを入れていて、どんな花火を作りたいか映像を作って持ってきた学生もいました。これには驚きましたね。こういう信念を持った人間は、シーズンが終わると他県へ花火を見に行くほど研究熱心です。好きだからやり続けられる仕事です」

大曲で毎年4月に開催される「さくらまつり」では、小松煙火工業の花火師たちがそれぞれ独自のアイデアを盛り込んだ花火を作り、しのぎを削る。全国のコンクールに出品することを目指し、研究と実践の日々。

大曲で毎年4月に開催される「さくらまつり」では、小松煙火工業の花火師たちがそれぞれ独自のアイデアを盛り込んだ花火を作り、しのぎを削る。全国のコンクールに出品することを目指し、研究と実践の日々。

花火は幻想では作れない。
試し打ちが教えてくれること。

そんな社員たちからは、日々斬新なアイデアが小松さんのもとに上がってきます。企画案からシミュレーションまで、みずから指導するという小松さんですが、社員にいつも言うことは、「花火は物理と科学であって、ファンタジーではない」ということ。花火の基本は爆発現象。そこにさまざまな要素が重なって、初めて幻想的な作品になるのです。

「ある時、社員の一人から、花火を上ではなく横に飛ばしたいという提案がありました。どんなふうにやるつもりか聞いてみると、残念ながら物理の観点では0点(笑)。何がダメかと言うと、花火玉を地面に少し角度をつけて置いてみるという試みでしたが、結局飛んで行った先で最終的に火の粉は垂れ下がってしまい、火災の心配がありました。でも花火の打ち上げ位置を地面から2メートルぐらいの高さに設置するだけで、リスクはグッと減ります。そこで、足場を組む方法を教えました」

即、却下かと思いきや、ありがたい師匠のアドバイス。安全にできるとわかれば、どんどん作らせて試験的に打ち上げるのが小松流です。「幻想だけで考えたものも、試し打ちをすれば、このままではダメだとすぐわかる」と小松さん。実際に打ち上げることで、改善ポイントも明白になります。「横に飛ばす花火」も試し打ちをした結果、燃焼スピードが速い火薬のほうが、よりリスクが少ないと社員自らが把握し、無事に完成。

今では欠かせない試し打ちですが、積極的に行うようになったのは、四代目(小松さんの父で「現代の名工」を受賞した小松忠二さん)からだそう。材料も貴重な昭和の時代、試験的に打ち上げる業者は非常に珍しかったと言います。しかし四代目は、コストを惜しむことなく試し打ちを勧めたそう。

「私は、そもそも花火にはそれほど興味がなく、父の跡を継ぐ気もありませんでした。ところが、大学から帰省したある年の夏、父は何を思ったのか、大会の昼花火を私にやってみろと言うんです。初めて花火玉を作ってみたものの、うまく作れたかどうかわかりません。すると父が、“花火は、上げてみなければ分からない。作ったら、どんどん打ち上げなさい”と言うのです。私は言われるまま、作っては上げ、作っては上げを繰り返すうちに、これほど面白い仕事はないと、いつの間にか夢中になって(笑)。まんまと父の罠にはまったわけです」

やればやるほど面白さにのめり込むのは、令和の花火師も同じこと。日々研究と実践に励む彼らが、まもなく奇跡を起こします。

年の夏の全国花火競技大会で、小松煙火工業の花火師たちが打ち上げた4代目・小松忠二さんの追悼花火。忠二さんは、発色が難しいとされる青色にこだわるなど、大曲花火の発展に大きく貢献。その匠の技を、見事に継承した。

年の夏の全国花火競技大会で、小松煙火工業の花火師たちが打ち上げた4代目・小松忠二さんの追悼花火。忠二さんは、発色が難しいとされる青色にこだわるなど、大曲花火の発展に大きく貢献。その匠の技を、見事に継承した。

寝る間を惜しんでも、
花火師たちが作りたかった花火玉。

小松さんの父・忠二さんが他界したのは、2025年5月。「丸い花火といえば、小松」と、世界に知らしめた大曲花火の功労者です。2025年8月に行われた夏の全国花火競技大会のプログラムには、忠二さんの追悼花火が計画されました。

「父への思いをこめて、私がやりたかったのは1つだけ。生前に父がこだわった花火玉を打ち上げようと音楽も花火の種類も指定しました。社員たちはそれに応えるべく一生懸命、取り組んでくれました。私は、その1つだけで十分だったんです。ところがその花火玉が完成したあとも、連日、工場の電気がいつまでたっても消えません。早く帰るようにとうながしても、あと5分だけと言って、気づけば2時間経っていた日もありました」

社員らが工場に残り、作っていたのは、四代目・忠二さんが魂を注いだ花火玉(八重芯錦先青光露残光)。大会で、小松煙火工業がかかわるプログラムすべてに忠二さんの技を盛り込んだ花火を準備していたのです。どれも一発一発が相当手間のかかる難しい花火玉だと小松さんは言います。限られた時間の中で、匠の技への大きなチャレンジ。その結果はー。

「私自身、驚きました。社員たちが父を思い作り上げた花火玉は、奇跡的にすべてがうまく出たんです。こんなことはめったにない。思いが通じることってあるんだなと胸が熱くなりました。今でも思い出すと涙が出そうになるので、まだ社員たちとは話していません。
花火はうまくいかないことがとても多いです。でも、こんな奇跡の体験が我々の次への原動力につながります。だからこそ花火は面白いんです」

観客はペンライトを手に。情熱の花火師とつながれる街へ

さて。花火師たちの熱い夜空のステージが終わったら、今度は観客が地上を彩る番です。会場の客席からは無数のペンライトがまたたき、その対岸では花火師のトーチの光が揺れます。
観客と花火師をつなぐこの光のエール交換は、大曲の花火師たちが来場者も参加できることはないか考え、ヘルメットのヘッドライトを振ったのがはじまりです。

「主催者側から見ると、客席一面に光がともり、すごくきれい。あの景色を見ると、ああ、無事に大会が終わったなと思う」と小松さん。花火の技を残す人、引き継ぐ人、そして集う人。すべての縁が夜空でつながり花火はとどろきます。春も夏も秋も、ペンライトを持って、大曲へいざ。

教えてくれた人

小松 忠信さん
小松 忠信さん

明治18年創業の小松煙火工業の代表取締役、五代目。同社では、花火玉の製造から販売、打ち上げまで行う。2028年夏、100回目を迎える夏の「大曲花火」(全国花火競技大会)には第1回から連続出場。日本国内はもちろん世界各国の競技会に出品、打ち上げを行う。これまで内閣総理大臣賞を始めとする褒賞を多数受賞。

※本記事で紹介している内容は、2026年4月時点の情報をもとにしています。 最新情報は、公式サイト等でご確認ください。