クラブツーリズム TOP「旅の友」Web版【東日本版】日本遺産の地に生きる 〜第6回〜

日本遺産の地に生きる

日本遺産STORY

瀬戸内海の東部、岡山・香川両県にまたがり100余の島々が浮かぶ備讃諸島。これらの島々で産出される花崗岩(かこうがん)は良質で加工がしやすく、「石切り」と呼ばれる採掘技術で切り出されました。石材は海を渡って運ばれ、大坂城(大阪城)に代表される近世城郭の石垣から、日本銀行本店本館など近代の洋風建築まで、日本の建築文化を支えてきたのです。

寒霞渓をはじめ奇岩怪石の美しい景観をもつ香川県・小豆島も、約400年におよぶ石切りの歴史をもつ「石の島」のひとつ。江戸時代、諸大名が競うように開いた採石地「石切丁場(ちょうば)」の跡が多く残るほか、石を利用した生活・文化、巨石への畏敬などが、今も島の人々の暮らしと心に受け継がれています。

「日本遺産」とは、文化庁が認定した日本の文化・伝統を語るストーリー。2019年6月までに83のストーリーが認定されました。

地域の歴史的魅力や特色を国内外へ発信することや地域活性化を目的としています。

石に刻まれた物語を読み解く

「石を動かした形跡や、作業にあたっていた石工の数など、ひとつの石からいろいろなことが分かります」。そう語る川宿田好見(かわしゅくだ・よしみ)さんは、6年前に小豆島に移り住み、石切丁場の研究を行っている小豆島町の学術専門員。石切丁場のガイドも務めています。

約400年前、大坂城の石垣に使われる石材を切り出した「大坂城石垣石切丁場跡」には、運び出されなかった「残念石」と呼ばれる無数の巨石が当時の姿のまま残されていました。石を割るために彫る「矢穴」の間隔を間違えて、明らかに失敗してしまった石もあれば、石垣に使われなかったことが「残念」なほど美しい断面の石も。石から読み取れるエピソードは石工たちの思いを身近に感じさせ、見学に訪れる子どもたちも共感してくれるとのことです。

現在の研究では、切り出した巨石をどのように山から海に下ろし、運んでいたかなどまだまだ多くの謎が残されています。「少しずつでもそれを解き明かして、見学に来られる方々にも当時の様子をよりリアルに実感してもらいたいですね」。その言葉には、400年前の石工たちの情熱を、この地に絶やさず伝えていく力強さがありました。

小豆島町「世界遺産化」対策室・学術専門員 川宿田好見さん

小豆島町「世界遺産化」対策室・学術専門員 川宿田好見さん

大坂城石垣石切丁場跡のひとつ・天狗岩丁場。シンボルの「大天狗岩」は高さ約17m、重さは1700tにもなるそう

大坂城石垣石切丁場跡のひとつ・天狗岩丁場。シンボルの「大天狗岩」は高さ約17m、重さは1700tにもなるそう

破線状の「矢穴」が彫られた巨石。石工たちはここに鉄製の矢を打ち込み、石を割っていました

破線状の「矢穴」が彫られた巨石。石工たちはここに鉄製の矢を打ち込み、石を割っていました

石の上に築かれた小豆島の文化
小瀬石鑓神社のご神体として祭られる重岩(かさねいわ)。人々の巨石への信仰心がうかがえます。見晴らしのよいこの場所は石切丁場のひとつ、小瀬原丁場跡から険しい山道を登った先。どのように置かれたかなど謎が多く残ります

小瀬石鑓神社のご神体として祭られる重岩(かさねいわ)。人々の巨石への信仰心がうかがえます。見晴らしのよいこの場所は石切丁場のひとつ、小瀬原丁場跡から険しい山道を登った先。どのように置かれたかなど謎が多く残ります

岩壁に張りつくように造られた長勝寺奥之院・西之瀧(小豆島八十八ヶ所霊場第42番)

岩壁に張りつくように造られた長勝寺奥之院・西之瀧(小豆島八十八ヶ所霊場第42番)

大坂城の石垣には、圧倒されるほどの巨石が各所に使われています(写真は大坂城桜門付近の蛸石)

大坂城の石垣には、圧倒されるほどの巨石が各所に使われています(写真は大坂城桜門付近の蛸石)

築城のために切り出されながら、運び出されずに残った「残念石」や石工の道具などを展示する大坂城残石記念公園。「残念石」に触れてみると、角の美しさや断面の滑らかさが分かります

築城のために切り出されながら、運び出されずに残った「残念石」や石工の道具などを展示する大坂城残石記念公園。「残念石」に触れてみると、角の美しさや断面の滑らかさが分かります 築城のために切り出されながら、運び出されずに残った「残念石」や石工の道具などを展示する大坂城残石記念公園。「残念石」に触れてみると、角の美しさや断面の滑らかさが分かります

小豆島で石材業を営み、大坂城残石記念公園を管理する坂井達也さん。「昔の道具や技術にふれることで、石を切って運ぶ労力や当時の人々の思いを知ってもらえたら」と語ります 小豆島で石材業を営み、大坂城残石記念公園を管理する坂井達也さん。「昔の道具や技術にふれることで、石を切って運ぶ労力や当時の人々の思いを知ってもらえたら」と語ります

 小豆島の基盤は約8000万年前に形成された花崗岩。長い年月の地殻変動によって地表に現れたのが現在の石の島たる景観で、海上からも島のところどころに荒々しい岩肌を見ることができます。江戸幕府による大坂城再築の際、諸大名が島の各所に競って石切丁場を開き、切り出した石は船で瀬戸内海を渡って大坂の地まで運ばれていました。筑前福岡藩の黒田家によって開かれた天狗岩丁場、八人石丁場などの岩谷地区だけでも、切り出されたまま運ばれることのなかった石が1600個以上残っています。

 豊かさをもたらす自然の象徴として、石は島の人々の祈りの対象でもありました。島の西端・小瀬地区で花崗岩の巨石・重岩(かさねいわ)が祭られているほか、空海が立ち寄ったとされる小豆島八十八ヶ所霊場には、険しい岩崖や洞窟の中に本尊を祭る山岳霊場が数多く見られます。

人と石が結びつく小豆島の暮らし

 小豆島が石切りで栄えた歴史は、現在の島の生活・文化の中にも見ることができます。例えば、祭りなどハレの日に欠かせない郷土食「石切り寿司」は、サワラやエビなどのネタと酢飯を木枠に入れ、石の重みで作る押し寿司。島の名産のひとつである醤油も、大坂城築城の採石部隊が持ち込んだのが始まりといわれています。

三角測量を行うために全国に設置されている「三角点」の柱石は、主として小豆島産の花崗岩が使われています(写真は土庄町役場内にある三角点) 三角測量を行うために全国に設置されている「三角点」の柱石は、主として小豆島産の花崗岩が使われています(写真は土庄町役場内にある三角点)

肥土山地区には約330年前から農村歌舞伎が受け継がれ、その舞台を見物する桟敷席は階段状の石積みで作られています

肥土山地区には約330年前から農村歌舞伎が受け継がれ、その舞台を見物する桟敷席は階段状の石積みで作られています

「小豆島は九州と大阪を結ぶ海運の中継地です。石のおかげで人々が集まり、持ち込まれた技術で島の産業も発展しました」と話す土庄町商工会会長、「せとうち備讃諸島日本遺産推進協議会」委員を務める丹生(にぶ)兼宏さん 「小豆島は九州と大阪を結ぶ海運の中継地です。石のおかげで人々が集まり、持ち込まれた技術で島の産業も発展しました」と話す土庄町商工会会長、「せとうち備讃諸島日本遺産推進協議会」委員を務める丹生(にぶ)兼宏さん

毎年5月に行われる肥土山農村歌舞伎。弁当などを持ち込んで桟敷席に腰かけ、青空の下で舞台を楽しみます

毎年5月に行われる肥土山農村歌舞伎。弁当などを持ち込んで桟敷席に腰かけ、青空の下で舞台を楽しみます

ほどよい酸味が食欲をそそる石切り寿司。酢飯がぎゅっと押し固められているので、一切れでも食べごたえ満点

ほどよい酸味が食欲をそそる石切り寿司。酢飯がぎゅっと押し固められているので、一切れでも食べごたえ満点

瀬戸内海に浮かぶ石の島々
石切丁場が残る瀬戸内海の島々
北木島の名産「北木石」の採石が行われている丁場。良質な石を求めて地下へと掘り進められ、約100mの断崖になりました。「石切りの渓谷(たに)展望台」からは、その壮大な景色を一望できます

北木島の名産「北木石」の採石が行われている丁場。良質な石を求めて地下へと掘り進められ、約100mの断崖になりました。「石切りの渓谷(たに)展望台」からは、その壮大な景色を一望できます

千ノ浜は丁場から切り出した石の積み出しを行っていた小さな港。その護岸は大小の端材を巧みに組み合わせて築かれています

千ノ浜は丁場から切り出した石の積み出しを行っていた小さな港。その護岸は大小の端材を巧みに組み合わせて築かれています

花崗岩で作られた生活用の水場「唐櫃岡(からとおか)の清水共同用水場」。湧水を石壁で一度せき止め、下流にある大小の水槽に流す仕組み

花崗岩で作られた生活用の水場「唐櫃岡(からとおか)の清水共同用水場」。湧水を石壁で一度せき止め、下流にある大小の水槽に流す仕組み

江戸時代に廻船問屋として財を成した尾上家の屋敷「尾上邸」。城のように高く積み上げられた石垣には、広島で採石される「青木石」が使われています

江戸時代に廻船問屋として財を成した尾上家の屋敷「尾上邸」。城のように高く積み上げられた石垣には、広島で採石される「青木石」が使われています

 瀬戸内海の島々に採石の発展をもたらした大きな要因は「山」と「海」にありました。平地が少なく、いたるところに露出している花崗岩の岩場と、海上交通の大動脈である瀬戸内海が一体となった地勢は、巨大な石の運搬を容易ならしめていたのです。
 笠岡諸島、塩飽(しわく)諸島など備讃諸島を構成する島々には、石の文化を色濃く残した景観が点在しています。島の暮らしを支えたのは、巧みな石切り、石積みの技術でした。

「迷路のまち」の路地裏めぐり
小豆島八十八ヶ所霊場第58番・西光寺へと続く路地は、「迷路のまち」の見どころのひとつ。花崗岩でできた石塀の一部は江戸時代に造られたものです

小豆島八十八ヶ所霊場第58番・西光寺へと続く路地は、「迷路のまち」の見どころのひとつ。花崗岩でできた石塀の一部は江戸時代に造られたものです

大坂城築城の際、採石奉行として采配をふるった加藤清正の陣屋跡。大庄屋・笠井家の屋敷の一角にあり、清正を祭る豊島石の祠が残されています

大坂城築城の際、採石奉行として采配をふるった加藤清正の陣屋跡。大庄屋・笠井家の屋敷の一角にあり、清正を祭る豊島石の祠が残されています

この地で晩年を過ごし、「咳をしても一人」などの句で知られる自由律俳人・尾崎放哉。彼が残した文献などを展示する尾崎放哉記念館

この地で晩年を過ごし、「咳をしても一人」などの句で知られる自由律俳人・尾崎放哉。彼が残した文献などを展示する尾崎放哉記念館

「外敵から守られていた町なので、昔ながらの風景も大事に残されています」と語る、小豆島「迷路のまち」ボランティアガイド協会会長の泊(とまり)満夫さん

「外敵から守られていた町なので、昔ながらの風景も大事に残されています」と語る、小豆島「迷路のまち」ボランティアガイド協会会長の泊(とまり)満夫さん

 小豆島の土庄町本町は、昔ながらの港町の風情が残る集落で、細い路地が複雑に入り組んでいることから「迷路のまち」といわれています。この路地は南北朝時代に島の攻防戦に備えて形成されたものといわれ、以来海賊による襲撃や海風から島の人々の生活を守ってきました。次々に出合う三叉路と先の見えないジグザグの道は迷路そのもの。探検気分で散策を楽しめます。

小豆島「石の絵手紙ロード」

2019年で4回目を迎えた瀬戸内国際芸術祭など、小豆島は現代アートの舞台としても知られるようになりました。島の石文化とアートが融合した「石の絵手紙」は小豆島の花崗岩に全国から寄せられた絵手紙をプリントしたもの。

土庄港から大部港にかけて、全47点(2018年12月時点)の作品が展示されています。形や色もさまざまで、個性あふれる作品の中からお気に入りを探してみるのも楽しみのひとつです。

優しいタッチで描かれた石の絵手紙は道行く人の心を癒やしてくれます

編集部のおすすめスポット

写真に撮りたい!小豆島の絶景

小豆島オリーブ公園

小豆島のシンボル・オリーブの並木と真っ白なギリシャ風車が調和し、絵本のような風景が広がります

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エンジェルロード

引き潮によって砂の道が現れ、向かいの余島まで渡ることができます。大切な人と歩くと願いが叶うとか

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寒霞渓

長い年月の地殻変動・浸食によって造られた大自然の芸術。特に山全体が赤や黄に染まる紅葉シーズンは必見

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小豆島とオリーブの物語

瀬戸内海を見下ろす「樹齢千年のオリーヴ大樹」

瀬戸内海を見下ろす「樹齢千年のオリーヴ大樹」

 庭木や街路樹など、小豆島のいたるところで見られる美しいオリーブの木。島内で栽培されるきっかけとなったのは、1908年に農商務省が缶詰用オリーブオイルの国内自給を図ったことでした。香川、三重、鹿児島の3県で試験栽培を行ったところ、小豆島だけが結実に成功。1911年には搾油が始まり、その優れた品質とともに広く知られるようになりました。

 土庄町にたたずむ「樹齢千年のオリーヴ大樹」は、2011年にスペインのアンダルシア地方から幹だけの状態で運ばれてきた巨木。現在は枝いっぱいに青々とした葉が茂り、小豆島で育まれたオリーブのたくましさを感じさせてくれます。

小豆島自慢の絶品グルメ

オリーブオイル

小豆島のオリーブの実は秋から冬にかけて収穫され、オイルが搾られます。小瓶で販売されているので、お土産にもぴったり

小豆島のオリーブの実は秋から冬にかけて収穫され、オイルが搾られます。小瓶で販売されているので、お土産にもぴったり

小豆島オリーブ牛

搾油後のオリーブを飼料として小豆島で肥育された黒毛和牛。やわらかい肉質が特徴(写真はレストラン「海と山の幸ヒコス」オーナーの藤本秀徳さん)

搾油後のオリーブを飼料として小豆島で肥育された黒毛和牛。やわらかい肉質が特徴(写真はレストラン「海と山の幸ヒコス」オーナーの藤本秀徳さん)

小豆島島鱧(しまはも)

小豆島近海は鱧のエサとなるエビが多く生息し、筋肉質で甘い身の鱧が育ちます。旬は梅雨から7月と晩秋の年2回

小豆島近海は鱧のエサとなるエビが多く生息し、筋肉質で甘い身の鱧が育ちます。旬は梅雨から7月と晩秋の年2回

小豆島を訪ねるツアーはこちら 瀬戸内海に浮かぶ石の島「小豆島」の旅はこちら

【日本遺産・海を越え、日本の礎を築いたせとうち備讃諸島】人と石とが出会う、まだ見ぬ小豆島の旅

かつて小豆島といえば、二葉あき子さんの『オリーブの歌』が流れ、土庄港に建つ「二十四の瞳」のブロンズ像(平和の群像)から、「二十四の瞳映画村」を見学し、日本三大渓谷美の一つと称される寒霞渓を訪ねる旅が主流でした。その一方で「石の島」と呼ばれ、産出する花崗岩と石切技術は、長きにわたり日本の建築文化を支えてきました。そして石にまつわる信仰や生活文化、芸能が今なお継承されています。

小豆島の人は丁場(ちょうば)と呼ばれる石切場で、石を切り、石を動かし、石を刻み、石を用いて暮らしを立ててきました。しかし、その石は人の前に立ちはだかり、人の心に恐れや悲しみも刻み、その結果、石は人の心を動かして信仰の対象となって、西之瀧などの山岳霊場がうまれたのです。 

約400年の歴史が凝縮されている丁場跡を訪ねると、神秘的でもあり、石には人に語りかけてくる心があるように感じます。重岩(かさねいわ)や天狗岩丁場なども、巨大石の神秘に富んだアートの世界です。大坂城の石垣用に切り出されながら、使用されなかった「残念石」は、土庄町の「迷路のまち」の石垣や基礎石にも使われており、「西光寺」の塀や採石奉行・加藤清正ゆかりの屋敷(笠井武太夫邸)にも残っています。

「石の島」小豆島の旅は、「残念石」など、旅の想い出に繋がる石を見つめ直し、人と石との新しい出会いについてじっくり考える良い機会となるでしょう。

クラブツーリズム株式会社
テーマ旅行部顧問 黒田尚嗣

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