クラブツーリズム TOP>「旅の友」Web版【東日本版】> 日本遺産の地に生きる 〜第1回〜
江戸中期の大火で焼失した真宗大谷派の井波別院 瑞泉寺を再建する際、東本願寺の御用彫刻師・前川三四郎に彫刻を依頼したのが物語の始まり。四人の地元大工が三四郎から技法を習い、瑞泉寺の再建などで培った技術と融合させることで、華麗で豪壮な井波彫刻が生まれました。この技術・技法は受け継がれ、やがて井波には彫刻師を目指す者が集まるようになります。
優れた彫刻が残る瑞泉寺、木を削る音が響きクスノキやケヤキなどの香りが漂う門前町、木彫刻でできた表札や看板に街路灯、祭りの曳山や獅子舞の獅子頭など、暮らしの随所に彫刻が息づく町の風景は、日本の木彫刻文化の護り手となった今も変わりません。
「日本遺産」とは、文化庁が認定した日本の文化・伝統を語るストーリー。2018年度までに67のストーリーが認定されました。
地域の歴史的魅力や特色を国内外へ発信することや地域活性化を目的としています。
「まず木を見て、そこから立体的な仕上がりを想像して作る原案作りが楽しい」と木彫刻の魅力を教えてくれた前川大地さんは、この地で42年間制作を続ける父・正治さんとともに工房を営んでいます。「(彫っているときは)大きな木から命をいただいている気持ち」という正治さん。その言葉に、まわりのものすべてに感謝する浄土真宗の教えが浸透した、井波の風土が感じられました。彫刻師の思いが木を伝わって、作品に込められる。井波の地では、当たり前のように感じるその思いを、ぜひ、現地に足を運んで体感してください。
井波の彫刻師仲間と制作している木彫刻のシャンデリアの図面を前にした大地さん(写真左)と大作を制作中の正治さん(写真右)
東本願寺の火災により帰京した京都の宮大工の後を引き継ぎ、江戸末期に井波の大工・松井角平恒徳が完成させた山門。「太子伝会」開催時には、山門に登ることができます。古い山門から望む井波の町は格別です
山門に刻まれた華麗で力強い作風の前川三四郎の彫刻「雲水一疋龍」
三四郎に学んだ彫刻師が技を競って作った太子堂の手挟み
井波彫刻初期の傑作とされる北村七左衛門の「獅子の子落とし」(勅使門)
真宗大谷派の井波別院 瑞泉寺は、明徳元年(1390)に京都本願寺第5代綽如(しゃくにょ)上人によって開創されました。北陸随一の規模を誇る木造建築寺院で、現在の本堂は明治18年(1885)に再建されたものです。山門の装飾など随所に名作が残されていますが、なかでも太子堂は彫刻装飾の粋を集めた「井波彫刻の殿堂」と呼ばれています。
毎年7月には、虫干しを兼ねて太子堂の宝物を公開する「太子伝会」が催されています。掛け軸の絵をもとに聖徳太子の一生を語る絵解きや聖徳太子二歳像のご開帳などが行われる貴重な機会です。この時期に合わせ、八日町通りでも、ノミを使って作品を仕上げる「氷の彫刻」や大木を運ぶレースなど、さまざまなイベントが開催されます。
彫刻の工房や造酒屋など古い町家が軒を連ねる八日町通り。歩いていると、木槌で鑿(のみ)を打つ音が聞こえてくる、情緒豊かな町。もやのかかる静かな早朝は、静穏な空気が漂います
丑が彫られた表札
バスの停留所の看板も木彫刻
電話ボックスも木のこだわり
井波別院 瑞泉寺の再建を発端に、高い技術力の木彫刻文化が生まれた井波。参道である八日町通りは、手の込んだ木彫刻の作品であふれています。家の表札に見られる動物は、家主の干支を表したもの。ほかにも彫刻師たちが作った木彫り猫が町のいたるところに隠れているので、猫を探しながらの散歩も楽しめます。
時代小説作家・池波正太郎氏の「父祖の地」井波。実筆絵画や書簡、愛用の品などを展示。
瑞泉寺の太子堂から名前をとった太子まんじゅうは、老夫婦が心を込めて作っている素朴な田舎まんじゅう。忙しい時には娘さんの手も借りるそう。
井波の彫刻文化を支える銘木店。なかなか出合うことのできない銘木を多数陳列。日本中から木工好きの方が買い付けに来ます。
丸みを帯びたカーブもヤスリは使わず、彫刻刀だけで仕上げる井波彫刻。会館に展示されている、仏像、欄間、パネルなどさまざまな木彫刻作品を鑑賞するだけで、井波彫刻の技術の高さを理解するのに役立ちます。作品の制作依頼も可能です。
作品を間近で鑑賞できる常設展示室
美しさと力強さを感じる風神
重厚な山門が出迎える善徳寺。春には境内の樹齢約370年の桜が咲き、「しだれ桜祭り」が開催されます
加賀藩2代目藩主前田利長が鷹狩の際に宿泊した「大納言の間」
約530年前に本願寺第8代 蓮如上人によって開かれた名刹。加賀の前田藩にゆかりがあり、壮麗な造りの大納言の間なども残されています。また、昭和23年に善徳寺に滞在していた民藝運動の創始者・柳宗悦は、仏典の一節から天啓を受け、「美の法門」をこの地で書き上げました。人々の生活に信仰が深く根付いている、この地の風土がもたらすものを「土徳」と表現した宗悦は、民藝の精神と「浄土真宗」の教えに共通点を見出したといわれています。
善徳寺の寺内町・門前町として1573年に開かれた城端は、絹織物が主産業だった町。「加賀絹」の名で京都でも販売され、加賀藩の篤い保護のもと繁栄しました。町人文化も華やぎ、毎年5月4・5日に開催されるユネスコ無形文化遺産「城端曳山祭」にもその面影を見ることができます。井波の精緻な彫りが施された獅子の舞を先頭に、加賀藩の庇護を受けた大工の技が光る傘鉾、伝統ある城端塗りの曳山が練り歩く祭りは風格があります。
風情ある城端曳山祭
蓮如上人ゆかりの直筆類や法宝物を数多く所蔵。毎年4月に法宝物を公開しています。写真は本堂
日本画家・岩崎巴人の襖絵
真宗大谷派の500年以上の歴史ある寺院。18代住職・高坂貴昭さんが民藝に造詣が深く、棟方志功と親交があったことから、寺には志功による襖絵「華厳松」が残されています。力強い松の絵は迫力があり必見。光徳寺のある福光は、棟方志功の疎開先でもあり、この地で作風の転機を迎えたともいわれています。また、日本画家・岩崎巴人の襖絵や世界各国の民芸品を数多く展示。木のぬくもりを感じる、アジア・アフリカ・ヨーロッパの各地の家具の陳列に、お寺である事を忘れるような感覚にとらわれます。
城端の曳山会館目の前「井波屋」の昆布餅は、おもちにおぼろ昆布が巻いてあり、絶妙な塩加減で美味。少し硬めな食感のカヤの実で作った「がや焼き」も城端地区の銘菓なので、ぜひお試しください。
昆布餅
がや焼き
ここ井波は浄土真宗が栄えたお土地柄。その教えは阿弥陀仏による全人救済=「他力本願」といわれ親鸞の悪人正機説にあるように凡夫たる悪人までもが救われる思想が根付いた土地です。阿弥陀仏により誰しも救われるので、自分本位の生き方に執着する必要がなく、その結果「ヨスマ」と呼ばれる所謂お人好しが多く存在し、土地全体が思いやりに溢れた「おかげさま」と感謝し合う幸せに満ちた土地なのです。木彫りの伝統が根付くきっかけはこの土地に真宗があり、阿弥陀仏への帰依(信仰心)のカタチのひとつとして真宗の大寺院があったからなのですが、今でもこの地が「土徳の里」と称されるように、人々の篤い信仰心が続く中にあることで物理的な建物を建てるという時限ではなく、「木彫りの文化」としてその姿を見せるに至っています。
文化庁が中心となり、日本の日本らしい文化を「日本遺産」として2020年までに、100のストーリーでまとめ、残す試みが進行しています。井波の木彫り文化もこの日本遺産に認定されました。
単なる見ごとな建物を観光するということではなく、形而下にまでふれる旅をすることで今までには無い素晴らしい世界に出会えることをお約束いたします。
クラブツ−リズム テーマ旅行部 成瀬純一