クラブツーリズム TOP > 「旅の友」web版【西日本版】 > 日本遺産の地に生きる 〜第13回〜
明治期の日本は、近代国家を目指して、海防力を高める必要に迫られていました。そこで、横須賀・呉・佐世保・舞鶴の4カ所に、海軍の本拠地となる鎮守府(ちんじゅふ)が置かれます。
鎮守府は日本を防備するだけでなく、艦艇の造船・修理、兵器の製造など、多くの施設を運営監督するのも役目。町には先端技術が集約され、鎮守府関連施設とともに水道や鉄道といったインフラも急速に整えられていきました。この飛躍的な環境の整備は、日本の近代化を推し進めることとなったのです。
今も当時の面影を残す4つの旧軍港都市。「戦艦大和」を生んだ広島県の呉では、歴史を物語るさまざまな景色が私たちを迎えてくれました。
「日本遺産」とは、文化庁が認定した日本の文化・伝統を語るストーリー。2019年6月までに83のストーリーが認定されました。
地域の歴史的魅力や特色を国内外へ発信することや地域活性化を目的としています。
「誰かが伝えていかないと、知るすべがなくなってしまう」そんな思いから、大之木小兵衛さんは呉海軍の倉庫として使われていた一棟を開放し、呉の歴史を伝える「澎湃館(ほうはいかん)」の運営を始めました。
大之木さんの大叔父は海軍の戦闘機搭乗員で、特攻訓練中に終戦を迎えました。子供の頃、大叔父から海軍の仲間たちの思い出話をたくさん聞いて育ったといいます。「大叔父の戦友の話を聞くと、“ありがとう”という感謝の気持ちでいっぱいになっていました」と話す大之木さん。「当時の人は、必ずしも戦争に賛成していたわけではなかったそうです。でも、この時代に生まれた自分の使命だと思い、戦っていたのだと大叔父から聞きました。彼らがいたから、そして、こうした歴史があったからこそ、今の日本があるんだと思えたんです」。
呉を訪れることで、歴史をより深く感じてほしいと話す大之木さん。「呉の歴史をもっと多くの人に知ってもらえる工夫や、新しい仕掛けを考えているところです。まだまだ、やりたいことがいっぱいあります」と語ってくれました。
株式会社大之木ダイモ 代表取締役社長
澎湃館 運営
大之木小兵衛さん
造船所のクレーンが立ち並ぶ呉湾。造船所として栄えた呉の町の技術が、今も受け継がれていることがうかがえます(歴史の見える丘より)
海上自衛隊OBが案内する呉湾艦船めぐり。停泊する海上自衛隊の船を間近に眺めます
呉海軍工廠施設に設置されていた塔時計(入船山記念館)
呉に鎮守府が置かれたのには、その特殊な地形が関係しています。三方が山に囲まれ防御に優れた土地、艦艇の入出港ができる湾、造船に必要な水深の深い穏やかな入り江。鎮守府を置く環境に適していたことから、造船と兵器製造の最重要拠点として明治19(1886)年に設置され、急速に市街地形成が進められました。そして、明治22(1889)年7月に開庁を迎えます。
呉には国の関与のもと、最新の技術と巨額の予算が投入されました。艦艇の建造・修理、兵器の製造をする工廠(こうしょう)や海軍病院、軍港水道など多くの施設が造られ、物資や人を運ぶための鉄道も発展。水道、鉄道などの整備は町人の生活を支え、活気ある軍港都市が造られていきました。
また、西欧の先端技術も導入したことで、日本の近代化を推し進めていくこととなったのです。当時使われていたものが今も多く残っていることからも、当時の技術の高さが分かります。
1889年の鎮守府開庁後に建てられ、1892年から長官官舎として利用されました。現在の姿は、調査・解体・修復を行い、建築当初の姿に復原したものです。
洋館部と和館部をもつ和洋折衷様式であることが特徴です
洋館部の壁や天井には、全国でも珍しい金唐紙(きんからかみ)が貼られています
和館部は呉鎮守府司令長官とその家族の住居として使われていました
金唐紙とは、海外で作られていた金色の革に似せて和紙でつくったもの。入船山記念館では年1回、金唐紙づくり体験も開催しているそうです。
呉海軍の製品置場として使われていたレンガ倉庫群。その中の一棟「澎湃館」は、魚雷(水中で使う爆弾兵器)の倉庫を改装した施設です。当時そのままの姿も残る内部を見学することができます。
梁と桁の木材には、当時も高価であった国産のマツが使われています。倉庫とは思えない贅沢な造りです(外観)
当時の姿をそのまま残す内壁。レンガの上に漆喰を塗ることで、強度を高くしています
内部にはカフェスペースや、お土産ブースもあります。展示を眺めながら、ほっとひと休み
戦時下の時代を生きるヒロイン・すずさんの生活を描いた映画「この世界の片隅に」。戦争の悲惨さや、当時の暮らしがていねいに描かれ、多くの人に感動を与えています。
すずさんが暮らしていたのが、この呉の町でした。呉を歩けば、映画で描かれた風景をあちらこちらで見ることができます。
作中に登場した風景。すずさんが夫・周作さんに忘れものを届けに行ったのがこの周辺でした
すずさんがお義父さんのお見舞いに行くシーンで登場する、海軍病院前の階段
戦艦大和を10分の1で再現。計算された、無駄のない美しいフォルムがかっこいいです。迫力のスケールに、実物がどれほど巨大であったのか体感させられます(大和ミュージアム)
戦艦大和の図面。紙は破れやすかったため、絹に図面をひくこともあったのだとか
戦没者や殉職者を埋葬している旧海軍墓地には、戦艦大和の戦死者の碑が建てられています
呉市美術館近くの「美術館通り」に、戦艦大和が描かれたマンホールを見つけました
海軍工廠の町として栄えた呉は、133隻の艦艇と17の特殊兵器を造る活躍を残しました。その中でも、呉の歴史を語るうえで外せないのが戦艦大和です。造船技術の集大成といわれる巨大戦艦で、呉海軍工廠で造られました。
構造が複雑で今もなお不明の部分があるという戦艦大和。機密保持が徹底されており、図面はパーツごと分けられ、全体像がつかめないようにされていました。全貌を知るのはごく一部の人。造船に関わった人のほとんどは、戦艦大和を造っていることさえも知らされていなかったのでは、ともいわれています。また、造船の様子を見られないようにするため、鉄道が通る場所に目隠しの壁を設置したり、上から覗かれないよう、呉を囲む山のひとつ、灰ヶ峰への入山には許可書が必要だったりという徹底ぶりでした。
戦艦大和の最大の特徴は、46センチ3連装主砲。重さ約1.5トンの砲弾を約40秒ごとに発射でき、砲塔は1基あたりで2760トンもの重量があります。戦艦大和にはこれを3基搭載していました。全長263mもの巨大な戦艦となったのは、この巨大な主砲を搭載するためだったといいます。
昭和16(1941)年12月16日に竣工。しかし、この時にはすでに主役は航空機へと移っており、戦艦大和の役割は支援任務がほとんどでした。そして、戦争終局時の沖縄特攻作戦に出撃し、最期を迎えることとなります。
ですが戦艦大和の造船技術は生き続け、戦後の呉ではタンカーを数多く建造するなど日本の復興を支えてきました。その後、臨海工業都市として発展し、地域の産業発展だけでなく、日本の近代化にも造船技術は大きく貢献していったのです。
海事歴史科学館(大和ミュージアム)学芸員 杉山聖子さん
呉の歴史と造船などの科学技術を紹介する、呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」。常設展では大和の設計技術だけでなく、乗組員や町人など多角的に戦艦大和を知ることができます。毎年内容が変わる企画展も見どころのひとつ。第28回を迎える本年は「広海軍工廠と航空機」をテーマに開催予定です(2020年4月23日〜2021年1月24日)。学芸員の杉山聖子さんにお話を伺うと、「技術的なことだけでなく、当時の社会背景も一緒に知ってもらえるように伝えていきたい」と話してくれました。
大和ミュージアムの近くにある海上自衛隊呉史料館「てつのくじら館」。海上自衛隊の潜水艦部隊や掃海部隊の活動を紹介しています。
実物の潜水艦「あきしお」の内部を見学できます。狭い艦内でスペースを有効活用する、工夫の数々に驚かされてばかりでした
潜水艦そのままの外観はインパクトがあります
展示スペースでは海上自衛隊OBの方が解説をしてくれることも
戦艦大和の最後の日に食べられたおむすびを再現した「大和むすび御膳」。当時貴重であった白米で握られたおむすびは御馳走でした
明治34(1901)年の創業より、海軍御用達の店として愛されてきた海軍料亭。店内には、貴重な資料を所蔵しています。
旬の食材をふんだんに使った、女性に人気の「かご御膳」
呉花街案内ガイドブック。呉の町にあったお店の数々が紹介されていました
海軍の人が使用していた仕入帳。当時の品物の値段を知ることができます
配給券。裏紙を使用していることから、物資が不足していたことがうかがえます
呉海自カレー「くろしお特製“広島風”柔らか牛すじカレー」。隠し味に、広島にちなんだ材料が入っているそうです
魚のすり身をカツにした呉のご当地グルメ「ガンス」をはさんだ「呉海自ガンスバーガー」
テラスからは海上自衛隊基地が眺められます
海上自衛隊基地の潜水艦を間近に眺める公園「アレイからすこじま」。その目の前にあるのが、港町珈琲店です。
海上自衛隊のカレーは艦ごとに独自のカレーレシピを持っており、艦艇の数だけレシピが存在しています。港町珈琲店では、潜水艦「くろしお」の味を再現。甘めのルーに、コラーゲンたっぷりの牛すじが入っています。ピリッと辛い後味がクセになる一品です。
ディナービュッフェでは、例年秋〜冬に「牡蠣フェア」を開催。蒸籠蒸し(写真)や牡蠣釜飯、牡蠣フライのフォンデュなどを味わえます
呉海自カレー「護衛艦さざなみ呉甘辛カレー」。牛すじを煮込んだコクのあるルーに、素揚げした野菜がトッピングされています
取材時、ディナービュッフェでひと際目立っていたのは旬の牡蠣。「牡蠣フェア」を開催中とのことで、さまざまな牡蠣料理が並んでいました(牡蠣フェアは例年秋〜冬に開催)。支配人の山智行さんにお話を伺ったところ、この牡蠣は杭打ち式で養殖されたものなのだとか。杭打ち式とは、河口の遠浅の海域に牡蠣を吊り下げることで、潮の満ち引きによる影響を受けさせる方法。海の中にいる時間が少ない厳しい環境で生き抜くため、牡蠣は養分を蓄えるようになり、より芳醇な味わいに育つのだそうです。杭打ち式はかつて広島県全域で行われていましたが、手間がかかることから、今では呉市安浦でしか行われていないといいます。広島県に伝わる牡蠣の濃厚なおいしさに、ついつい食べ過ぎてしまいました。
牡蠣の旬が過ぎると、次は小イワシやクロダイの美味しい季節。春のメニューも楽しみです。
グリーンピアせとうち
支配人 山智行さん
令和2(2020)年は、太平洋戦争が終わって75年目になる。仮に終戦時に20歳だったとすると、現在95歳だ。つまり戦争を体験した世代が少なくなり、当時のことが風化していく危険性があるということだ。第一世代の方々の声無くして真実を伝承することはできない。今こそ本当のことを整理し、共有すべき時だと思う。
昭和16(1941)年12月16日、あの有名な戦艦「大和」が就役した。ちょうど太平洋戦争の戦端が切られて1週間ほど後のことだ。当時の乗組員の中には「大和」の完成を待って戦争を始めたと考えていた人もいたという。
戦艦の能力は基準排水量ではかるのが一般的だが、大和のそれは64,000トンと当時の世界の超弩級戦艦と比べても圧倒的存在感を誇った。27.46ノットの速力を除けば、263mの全長、38.9mの最大幅、45口径46センチの主砲、主砲防盾650mm、舷側410mm、甲鈑230mmの装甲とどれを取っても世界最先端の戦艦だった。
米英が主導するワシントン海軍軍縮条約(1922年)やロンドン海軍軍縮会議(1930年)の影響を受け、日本は量から質への転換に進まざるを得ず、これを大艦巨砲主義に置き換えたときに、その延長線上として「大和」が誕生することになる。
実は「大和」が誕生するタイミングには、日本自体が、真珠湾攻撃とマレ−沖海戦で大艦巨砲主義が終わり、航空主兵論時代が開かれることを証明していた。特に航行中のイギリス東洋艦隊の戦艦「プリンスオブウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を航空機だけで撃沈したマレ−沖海戦は海軍戦術史のエポックメイキングといえる筈だった。米国はこの経験から、戦艦造船から空母と戦闘機に生産を大きくシフトして航空主兵論に舵を切るのだが、日本は日清、日露の成功体験の呪縛もあり、切り替えに完全に遅れてしまった。
戦艦「大和」は昭和20(1945)年4月5日に、連合艦隊より「一億総特攻のさきがけ」として沖縄海上特攻の命令を受領し、4月6日天一号作戦(菊水作戦)により山口県徳山沖を沖縄に向けて出撃する。ミッドウェ−作戦、ソロモン海戦、マリアナ沖海戦、姉妹艦「武蔵」を失い事実上連合艦隊が崩壊したレイテ沖海戦まで敵戦艦と正面から砲火を交えることは殆どなくなく、遂に4月7日14時23分、鹿児島県の坊ノ岬沖で米空軍の激しい攻撃を受け沈没する。
「大和」とは何だったのか。足跡というには恐れ多いが、「大和」の歩んだ道を今一度勉強し、理解することで、我々日本人とはどういう民族であったのか、またこれからの未来をどう生きてゆくべきなのかに気付かせてくれるのではないかと強く思う。当時東洋一の軍港といわれた呉海軍鎮守府では、海軍工廠で働く人が5万人を数え、呉の町も40万人を超える大都市だった。「大和」もこの町で生まれたのだが、その主砲を造った現在の日鉄日新製鋼呉製鉄所が、2023年9月に閉鎖されることもニュ−スになっている。呉の町は大きく変わる兆しに直面している。かつての姿を正しく振り返る時間はそう多くは無いのかもしれない。残されたチャンスを逃し後悔しない為にも、今年こそ「大和」の聖地呉へ真実を訪ねる旅に出たいものだ。
5人の語り部の力を借りて、C2928「軍港呉の歴史と戦艦大和一日学校」(6月26日出発)というコ−スで呉と戦艦「大和」をご紹介させていただく予定です。
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講師・成瀬純一