世界文化遺産登録となった「明治日本の産業革命遺産」は、軍艦島、萩反射炉、韮山反射炉、三池炭鉱、旧グラバー住宅、官営八幡製鐵所など8エリア23件の資産で構成されています。おすすめツアーをたっぷりご紹介します。
明治日本の産業革命遺産のご紹介
萩(山口県)
萩反射炉
鉄製大砲の鋳造のために作られた金属溶解炉。反射炉が現存するのは韮山(静岡県)と萩の2ヶ所のみとなり、とても貴重な遺跡です。
萩城下町
吉田松陰をはじめ高杉晋作、伊藤博文など多数の逸材を輩出した地として、今も維新志士ゆかりの場所や古い神社仏閣など、まるで歴史の本を見ているかのような風景が広がります。旧萩城の外堀から外側に広がる菊屋横丁は、白いなまこ壁が美しく「日本の道百選」の一つに選ばれています。
松下村塾
幕末期に吉田松陰が主宰した私塾。久坂玄端、高杉晋作など、明治維新の原動力となった多くの逸材を育てました。木造瓦葺き平屋建ての小舎で、松陰の石膏像と肖像画、机が置いてあります。
恵美須ヶ鼻造船所跡
幕末に萩藩が洋式帆船を建造した造船所跡で、現在も大きな防波堤が残っています。
大板山たたら製鉄遺跡
萩藩の洋式造船を支援した伝統的なたたら製鉄所です。たたらは、砂鉄を木炭で燃焼し鉄を得る日本の伝統的な製鉄方法です。
ここで作られた鉄は、幕末に萩藩が建造したことで有名な軍艦「丙進丸」にも使用されています。
主要施設(元小屋・高殿・砂鉄掛取場・鉄池・鍛冶屋等)の遺構がよく保存されており、建物跡などの遺構が露出した形で整備されています。
八幡(福岡県)
官営八幡製鉄所 旧本事務所
八幡製鐵所創業2年前の1899年に竣工した初代本事務所。中央にドームを持つ左右対称形の赤煉瓦建造物で、長官室や技監室、外国人顧問技師室などが置かれていました。1922年、製鐵所の規模拡大に伴って管理機能が移転した後は、鉄鋼研究所や検査室などとして利用されています。現在は、製鐵所の構内に立地していることから一般には公開されていませんが、2015年4月より構成資産のひとつである旧本事務所(1899年竣工)を眺望できるスペースがオープンしました。
遠賀川水源地ポンプ室
1910年、八幡製鐵所第一期拡張工事に伴い鉄鋼生産に不可欠な工業用水の水源及び送水施設として遠賀川東岸に建設されました。建屋はイギリス積みのレンガ造りで、赤煉瓦を主体とし、一部、アクセント的に鉱滓煉瓦が使用され、南北の窓の形状も異なる等、意匠性に優れたデザインとなっています。建屋の鉄骨の屋根構造物は、創業当時のままの姿を今も留めており、動力は蒸気から電気に変わりましたが現在も稼動しています。
佐賀(佐賀県)
三重津海軍所跡
三重津海軍所跡は、日本初の実用蒸気船を建造し、海軍教育でも名高い施設です。
佐賀藩は、オランダに蒸気軍艦を発注するとともに、独自に蒸気船製造を計画。また、1855年には、幕府が設置した「長崎海軍伝習所」へ多数の佐賀藩士を海軍伝習生として参加させ、操船技術に加え、造船や機械工学、火薬製造を学ばせました。三重津海軍所は明治初期に閉鎖されたと思われますが、その後、1902年から1933年まで商船学校として利用され、現在は、佐野歴史公園として整備され三重津海軍所関連の遺構は地下に保存されています。
長崎(長崎県)
軍艦島(端島炭坑)
端島(軍艦島)は、1810年頃に石炭が発見され、石炭の採掘は1870年に天草の小山秀(こやまひいで)によって始められました。次に佐賀藩鍋島氏の手に移り、1890年に隣の高島と同じく三菱の経営に移りました。端島は、海底を採掘するため、地上よりも地下に遥かに巨大で複雑な生産施設を持つとともに、地上には炭坑住宅などの多くの生活施設を有しており、良質の製鉄用原料炭を産出する地下1000mの炭層を持つ海底炭鉱の島として、わが国の近代化を支えてきた炭坑でした。
旧グラバー住宅
貿易商であり、グラバー商会を設立したトーマス・ブレーク・グラバーが住んでいた日本最古の木造洋風建築です。1961年6月7日、主屋・附属屋が国の重要文化財に指定しました。旧グラバー住宅は、英国コロニアル様式と日本の伝統的な建築技術の融合を示しています。
三菱長崎造船所関連
【三菱長崎造船所 第三船渠】
第三船渠は三菱合資会社の下で、1905年に竣工した当時東洋最大の船渠(せんきょ)です。
【ジャイアント・カンチレバークレーン】
同型としては日本に初めて設置された最新式電動クレーンです。現在も機械工場で製造した蒸気タービンや大型船舶用プロペラの船積み用に使用しています。
【旧木型場(きゅうきがたば)】
明治31年に鋳物工場に併設する「木型場」として建設された長崎造船所に現存する最も古い建物。明治30年代に建造された現存する木型場としては国内で最大規模です。
【占勝閣(せんしょうかく)】
三菱重工業(株)長崎造船所構内、本館社屋の海側、第三船渠を見下ろす丘の上に立地する木造洋館です。
高島炭坑
日本の石炭産業の礎を築き、日本最初の蒸気機関による堅坑跡です。19世紀に入り、イギリスをはじめとする欧米列強は、アジアへの進出を図り、日本の開港により、長崎は石炭運搬や欧米列強の蒸気船のための石炭補給拠点としての役割を担いました。現在、高島には、坑口などの炭坑遺構が多数残っているほか、高島炭坑の開発にあたったトーマス・ブレーク・グラバーが高島における経営の拠点としたグラバー別邸の遺構があります。
小菅修船場跡
日本最初の洋式スリップ・ドックが小菅修船場です。
船をボイラー型蒸気機関の力で引き揚げるために設置されたレール上の滑り台がそろばん状に見えるので、通称「ソロバンドック」といわれています。巻上げ小屋は現存する日本最古の煉瓦造りの建物で、国指定史跡に指定されています。
三池(福岡県・熊本県)
三池炭鉱・三池港
三池炭鉱は、日本の近代化を支えた貴重な炭坑遺溝です。1889年、三池炭鉱は明治政府から三井に払い下げられました。そして三池炭鉱において三井が最初に独自開発を行いました。明治期の炭鉱施設がよく残っていることが評価され、炭鉱施設としては初めて、1998年に国の重要文化財に、2000年に国の史跡に指定されています。
三角西(旧)港
三角西(旧)港は、明治を代表する土木港湾施設です。
1884年、総工費302,068円にて工事に着工し、熊本から三角までの道路建設と三角西(旧)港の築港を3年の歳月をかけて、1887年8月15日に開港しました。明治の港湾施設が完全な形で残っているのは日本でここだけです。2002年には国の重要文化財に指定されました。
鹿児島(鹿児島県)
旧集成館
オランダ技術が取り入れられた日本最古の洋式工場です。
島津斉彬(しまづなりあきら)が築いた集成館は、薩英戦争で焼失しましたが、島津忠義(しまづただよし)の手で復興が進められ、1864(元治元)年に機械工場の建設が始まり、翌1865(慶応元)年に完成しました。
機械工場は1962(昭和37)年に旧集成館機械工場として国の重要文化財に指定されており、オランダの工作機械メーカーで1863年に製造された形削盤(かたけずりばん)1台も尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)に現存し、 重要文化財に指定されています。
寺山炭窯跡
集成館で使用する燃料を製造した炭窯の跡です。
島津斉彬(しまづなりあきら)は、集成館事業の進展とともに、木炭の需要も急増し、供給不足に備え、火力の強い白炭を製造するため、鹿児島市の北東部に広がる吉野台地の北側、集成館から北北東約5kmに位置する吉野町寺山に炭焼窯の設置を命じました。寺山には、1858年に建設された炭窯の跡が残っており、炭窯本体は堅牢な石積で築造された当時の姿を今も残しています。
関吉の疎水溝
棈木川(あべきがわ)の上流、関吉から雀ヶ宮までの約8キロメートルにおよぶ用水路で、島津斉彬が集成館事業のために造らせたものです。用水を動力源として利用され、いまは実方橋の手前でとだえていますが、取水口のところは昔のようすを残しています。
釜石(岩手県)
橋野鉄鉱山・高炉跡
大島高任(おおしまたかとう)は、大砲の素材には良質な鉄鉱石を原料とした銑鉄が必要と考え、盛岡藩大槌通甲子村大橋(現岩手県釜石市甲子町大橋)に洋式高炉を建設し、1858年、日本初の連続出銑に成功しました。橋野(現釜石市橋野町青ノ木)の高炉は、その成功から盛岡藩が製鉄業に乗り出し、1858年から1860年ごろにかけて高炉3基が建設されたものです。1957年には、我が国に現存する最古の洋式高炉跡として、国史跡に指定されています。
韮山(静岡県)
韮山反射炉
反射炉とは、金属を溶かし大砲を鋳造する炉のことです。幕末期の代官江川英龍(坦庵)が手がけ、後を継いだその子英敏が完成させました。稼働した反射炉が現存するのはここだけです。