武家の都の素顔・鎌倉|鎌倉旅行・ツアー|観光地紹介
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武家の都の素顔・鎌倉
鎌倉歴史文化交流館・学芸員 大澤泉さん
早稲田大学大学院文学研究科史学(日本史)専攻博士後期課程単位取得後退学。現在は鎌倉歴史文化交流館学芸員。専門は日本中世史で、特に鎌倉時代の地域社会や都市鎌倉の歴史を研究している。
文化が折り重なる「モザイク画の町」
12世紀末、源頼朝が武家による政権(幕府)を開いた武家の都・鎌倉は、かつてアジアを牽引していた中国の文化をいち早く取り入れた、流行最先端の町でした。その後、江戸時代には観光地として、明治以降はリゾート地として知られていく鎌倉ですが、その礎には鶴岡八幡宮をはじめとした武家文化の存在があり続けました。大澤さんは「さまざまな時代の文化が折り重なってできた鎌倉は、モザイク画の町とも呼ばれています。各時代の姿を知ると、鎌倉散策がより楽しいものになりますよ」といい、まずは鎌倉幕府を支えた鎌倉武士の意外な素顔について語ってくれました。
鎌倉時代、武家政権の守護神として鎌倉に据えられた鶴岡八幡宮。永く武士や知識人たちに愛されてきた鶴岡八幡宮は、鎌倉のシンボルの一つとして今も多くの参拝者で賑わいます。
【鎌倉時代】武士から庶民まで、鎌倉人をとりこにした異国の文化
頼朝によって幕府が置かれた武家の都・鎌倉。12世紀後半の鎌倉は当時、世界を牽引していた宋(中国)との貿易に力を入れており、宋から伝わった中国文化は身分を超えて人々に愛されていました。
【学芸員・大澤さんが解説!】
海から鶴岡八幡宮に続く若宮大路には、かつて有力武士たちの屋敷が立ち並んでいたといいます。武士たちは日常の食器として唐物の青磁や白磁を使用するだけでなく、宝物として青磁の壺や置物を見せ合ったり、宋から伝わった茶の湯に親しんだりと最先端の中国文化を楽しんでいました。繊細なつくりの青磁器を見れば、合戦の時とはまた違う、武士たちの素顔を想像することができますよ。
鎌倉市内では、中国大陸から流入した唐物の青磁や白磁が数多く発掘されました。発掘場所はさまざまで、唐物は武士たちの宝物として珍重される一方で、庶民が日常として使う食器としても愛されていたことがわかります。
中国文化が身近にあった当時の鎌倉の町では、宋由来の禅宗の教えが広く支持されました。真言宗寺院ながら、素朴で力強い禅宗の影響を受け入れた覚園寺は、大澤さんのイチオシ。自然に包まれる粛静な境内を進んだ先、本堂で出会う十二神将の鋭い視線には身が引き締まります。
【江戸時代】幕府崩壊後、荒廃した鎌倉が脚光を浴びた理由とは
幕府崩壊後、室町時代に入り、政治的な求心力を失うと鎌倉の町全体が資金不足に陥りました。鶴岡八幡宮は町のシンボルとして守られましたが、その他の神社仏閣はかなり厳しい状況だったはずです。町全体が荒廃していく中で、武家の都・鎌倉に再注目したのが「水戸の黄門さま」こと水戸光圀。光圀は鎌倉の寺社や宝物、吾妻鏡の考察などをまとめた「新編鎌倉志」という地誌を編纂しました。「新編鎌倉志」は鎌倉武士にルーツのある江戸の武士や知識人たちを中心に広まり、鎌倉観光の基礎情報として広く世間に知られていきます。そして鎌倉は政治の中心地から、かつての武家文化が残る観光地として様変わりしていきました。
【学芸員・大澤さんが解説!】
鎌倉は当時から演劇の舞台などに多く使われていたこともあり、庶民たちはロケ地巡りのような感覚で観光に訪れていたと思われます。友人同士で物語の舞台を訪れたり、人気のお土産を買ったりと、観光客の姿は今とそう変わらないかもしれませんね。
水戸光圀が編纂した「新編鎌倉志」を参考に、鎌倉の地図や名所図会が多数発行されました。鎌倉名所図会は今でいう観光ガイドブックのようなもので、江戸や鎌倉の茶屋でも配布されるなど庶民の人気を集めていました。
【明治時代】療養地からリゾート地へ 海外旅行客にも愛された鎌倉文化
海水浴が諸病に効くとされていた時代、鎌倉の七里ガ浜は療養地としてクローズアップされることになります。当初は療養を目的として建てられた施設「海浜院」が、「海浜ホテル」に姿を変え、海外旅行客で賑わう迎賓館のようなものになっていきました。海外旅行客たちは鎌倉に残る古都の風情に注目し、なかでも人気を集めたのが高徳院の大仏です。高徳院の大仏も、鶴岡八幡宮と同じく源頼朝の指示で鎌倉に建立されたもの。武家文化は時代によって形を変えて、現代まで愛され続けているんです。
【学芸員・大澤さんが解説!】
高さ11mにおよぶ大仏のエキゾチックな魅力は西洋の人々にとって、まさに異国文化そのもの。海浜ホテルには外国語のガイドブックがあったので、海外の人にとって観光しやすい町になったことも鎌倉がリゾート地として人気を集めた理由のひとつです。
海水浴のできる静養施設から、ホテルとして姿を変えた海浜ホテル。明治以後の日本建築界の基礎を築いたといわれるジョサイア・コンドル氏が増築に関わったとされる西洋風の建築で、客層は主に外国人だったそう。
鎌倉の大仏は、鎌倉時代に流行した中国文化の影響を受け、前かがみの姿勢をしているのが特徴的です。風雨に晒され続ける露座の大仏ですが、劣化する度に大規模な修復や債再建が繰り返され、今も昔も国内外問わず観光客に愛され続けています。
【大正時代】鎌倉に魅せられた文学者たちの文化 市民に守られる近代の鎌倉へ
明治時代より、正岡子規や夏目漱石が訪れた鎌倉。町に残る古都の雰囲気に惹かれ、大正時代には久米正雄など多くの文学者が鎌倉を拠点にしました。鎌倉に住む文学者たちは「鎌倉文士」と呼ばれ、徐々に文学者同士のコミュニティが完成されていきました。鎌倉を愛する文学者たちは「鎌倉カーニバル」などの町おこしにも力を入れたほか、災害の際には財閥と共に出資をして文化財を守ったり、宅地開発の際には市民たちと反対運動を行なったりと、市民の力で文化の町・鎌倉を守り、盛り上げていく土壌を作り上げました。
【学芸員・大澤さんが解説!】
文化を愛する文学者たちは古都・鎌倉への思い入れが深く、市民と協力して鎌倉を守りました。人の力で守られた鎌倉文化の中には、鎌倉幕府崩壊後も時の権力者に守られ続けた鶴岡八幡宮や、資金を集めて再建を繰り返した高徳院大仏も上げられるでしょう。さまざまな時代の文化が重なるモザイク画のような鎌倉文化の背景には、武家の古都・鎌倉を思う人々の思いがあるんですよ。
かつての別荘地の雰囲気を残す鎌倉文学館では、文学作品に留まらず、文学者たちの暮らしを通して彼らの素顔を知ることができます。三方を山に囲まれて、遠くに海を臨む鎌倉らしい雰囲気のなか、かつての鎌倉に思いを馳せてみては。
鎌倉散策で立ち寄りたいおすすめスポット
長谷寺
四季を通じて花が耐えることのない「鎌倉の西方極楽浄土」と呼ばれる長谷寺は、初夏になると咲き誇るアジサイが目を楽しませてくれます。鎌倉の海や街並みを眺めつつ、この時期だけの美しさと出会いに、ぜひ足を伸ばしてほしいスポットです。
鎌倉歴史文化交流館
大澤さんが学芸員を務める鎌倉歴史文化交流館では、鎌倉の歴史や文化をより深く知ることができます。とくに常設の「永福寺VR」は必見。源頼朝が鎮魂のために建立した豪華絢爛な寺院だったにも関わらず、廃寺となってしまった永福寺を目の前に眺めると、武家の古都として栄えた頃の鎌倉の姿や、武家の権力を実感することができます。